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毎年の振り返り

   

10年ごとに振り返っていた当時の記録。

30歳や40歳のときにはfacebookに書いていましたが、50歳になったときにまた10年を追記してここにまとめ直しました。 今後は毎年振り返ってここにまとめていくことにします。前のものを振り返ってみると、いまだったらそうは思わなかっただろうなというのもあります。

20歳 (1993)

 大学の2回生。サークルで会長をやってましたが、実権はなかったです。当時の付き合いは長くなりましたね。PC-98 にはまってしまい、本業の勉強はかなりおろそかになってしまいました。

21歳 (1994)

 3回生。あまり覚えてません。一番麻雀をやりまくっていた頃でしょう。単位もぜんぜん取れませんでした。再履修の語学を3科目全部落としたのが致命傷。パソコン通信などでよく喧嘩していました。若かったです。

22歳 (1995)

 地獄だった4回生。大学院の受験途中に母がガンで入院。合格しても行けませんでした。留年するお金はないため、ぜんぜん足りなかった70単位ほどをかき集めて、なんとか卒業単位を取得。全く勉強にはついていけなくなり、つらい毎日でした。

23歳 (1996)

 休学して公務員試験など。京大生とは言えども、バイトして食いつなぎながら片手間で受けても通るはずもなく、全部玉砕。親に勧められるままに人生を歩いてもつまらないとはっきり認識。

24歳 (1997)

 なんとか奈良先端へ。あまりの山奥に絶句。懲役2年という感覚でした。食料調達のために原付の免許を取り、年が明けてから車の免許も取りました。13年落ちの軽自動車を5,000円で購入。10base-T の回線が寮まで来ていたため、FreeBSD の活動にも積極的に参加。

25歳 (1998)

 研究テーマがはっきり決まらないまま数ヶ月で修論を仕上げて、なんとか修了。周りが社会人学生ばかりだったということもあって、仕事の基礎はここで身に付いたのかもしれません。

26歳 (1999)

 就職で東京へ。NTTデータの子会社。社長から内定の電話を直接もらってものすごく感動していましたが、そのときにお話があった特許庁の仕事は全くできず。2ヶ月の研修終了後にわたしだけ一人で派遣に出されました。しかも学生時代の因縁深い部署へ。そこだけは嫌だと言っても聞き入れられるはずもなく。いつのまにかモーニング娘。にはまってきたのもこの頃。

27歳 (2000)

 さまざまな部署を放浪。都内ではあったものの年に6回ほど職場が変わる。たまには日の当たる仕事もありましたが、人間扱いもされず、給料も安く、年功序列でまともな評価がないことにぶち切れて転職を決意しました。他の部署の電話を取るために大学院を出たのではないし、そんなことは派遣のお姉さんにでもやってもらったほうがいいのです。モーニング娘。のライブに武道館から参加。

28歳 (2001)

 小さいベンチャー企業へ。転職のタイミングで王子神谷から田端に引っ越し。大卒でさえもほとんど居ないという状況に価値観の変化を求められました。前の会社では人間以下の下っ端の扱いだったところからいきなり人を使うという立場になってもうまくいかず、なかなかいい仕事ができずにいました。なにも知らなかったことを知り、技術的には一番伸びた一年だったと思います。ライブが純粋に楽しかった頃です。会場にいればいいという感じでした。

29歳 (2002)

 いつのまにか立場が引き上げられ、本格的にマネージャーとしての立場に。プログラマーとしては引退。現役時代はわずか2年くらいでした。ライブに行くのが習慣に。前のほうでなければ納得しなくなりました。29歳の終わりに圭ちゃんが卒業。

30歳 (2003)

 退職者が増え、入社2年目で古株社員となる。新しく入って来た役員と合わず、過敏性腸症候群に。都立駒込病院で精密検査など。結局夏頃に退職。9月に1週間ほどアメリカへ旅行。12月に住吉近くの140名くらいの会社に就職。3社目。3月にマルエツが開店。スポーツクラブの会員になる。

31歳 (2004)

 転職先の仕事が合わず、体調が悪化。心療内科に通い始め、3ヶ月の休職。復職後も退職者続出の環境には耐えられず、12月末で退職。1月から浜松町の会社に転職。4社目。

32歳 (2005)

 実質つぶれた会社の残骸からソースコードを掘り起こしてまた動かして売るというお仕事。ハロプロのライブには行っているが、スポーツクラブからは遠ざかってしまった。労働時間としてはこの年が一番長く、休日出勤も頻繁に。またもや倒れてしまい休職。ゴミを動かせるようにしたところでゴミでしかなく、そんな製品は売れないということで事業をたたむとの役員判断に合わせてブチ切れて退職。

33歳 (2006)

 5社目。特定派遣。「普通の会社員には限界を感じた」と当時の記録にある。竹芝で大きめなシステムのインフラ周りや帳票周りの開発のお仕事。毎日のように Oracle ばかりいじっていたような。ハロプロやFreeBSDの活動からは徐々に離れる。

34歳 (2007)

 Oracle Master Platinum 10g に合格。弁理士試験の勉強を始める。Wで通信教育の1年コース。睡眠時無呼吸症候群の検査を受けたところ、AHIが104、最低酸素飽和度84%ということで重症と診断。CPAPでの治療を開始。秋から芝公園の案件に移る。

35歳 (2008)

 結婚相談所に登録。3年ほど在籍している間に何人も会えたものの、結果は出ず。弁理士試験の初受験は短答32点で敗退(39点で合格)。8月にレーシックを受ける。0.02→1.5に。この年に奨学金の返済を完了。高校から大学院まで約420万。飯田橋のお仕事へ。

36歳 (2009)

 短答2回目は30点(37点で合格)。Oracle の Platinum 11g 移行試験が始まったということで受験。3回目で(実質2回目)で合格。仕事も勉強も婚活もそれなりにやっていたような。

37歳 (2010)

 水道橋のお仕事に移る。3月までの職場とは近所。奈良先端時代に同じ研究室だった方が上司になってびっくり。世間は狭い。3回目の受験は3点足りず。3年継続していた結婚相談所での婚活の失敗もあってダメージが強い一年だった。秋から田町の案件に。Macと出会う。3月にあの大震災を体験する。3時間半掛けて歩いて帰宅。

38歳 (2011)

 4回目の受験も3点足りず、36点。仕事はRedmineやRubyだったり、VPSの品質管理やサポートだったり。1級知的財産管理技能検定(特許)に合格。体調は回復傾向にはあったものの、健康にはほど遠く。気分転換に出雲大社に行ってみた。

39歳 (2012)

 5回目でやっと短答通過(38点、基準点37点)。論文は対策していなかったためD/F/Eで敗退。夏頃から半年ほど品川シーサイドのお仕事。RubyでのECサイトの開発。31歳から通っていた心療内科への通院をやめる。年明けからは神保町へ。

40歳 (2013)

 神保町の仕事。単価は高かったけれども、ほとんど仕事がなくて病んでしまう。2回目の論文試験はD/A/Cで不合格。意匠法はAを取れた。仕事と受験との両立に悩み、体調がずっと悪い。働けなくなってまた精神科に通うことになる。この年くらいから乃木坂46を追いかけ始める。

41歳 (2014)

 病院で紹介されて上野のリワークセンターに通う。論文試験3回目はもう受けただけ。D/D/Eで三振となり、長い受験生活を終えることになった。新宿方面の某通信会社さんの案件から仕事復帰。傷病給付金が入るまでの空白期間が長かったり、復帰してからも欠勤が多く収入があまりないため、お金に少しずつ困る状態になる。

42歳 (2015)

 2011年にいた田町の通信会社の別な部署の案件に入る。Ansibleを触り始める。RHEL+Java+Oracle11g などをやっていた。ツイートを遡ると、乃木坂ちゃんの話がかなり多くなってきたのがこの頃。職場では頼りにはされているものの充分な収入はなく、お金の問題はもう限界を迎えつつある。

43歳 (2016)

 クレジットカードの毎月の支払いが不可能になり、個人再生手続きを始める。実家の猫が立て続けに亡くなる。黒いのと白いの。仕事は4年ぶりに休職することなく、欠勤はありながらも一年勤めることができた。

 2006年から所属している派遣会社が上場廃止や二度の買収などもあり、組織もボロボロになってきたこともあって転職を決意する。乃木坂46「きっかけ」にも後押しされた。出身中学が同じということでずっと応援していた橋本奈々未さんが卒業を発表。2月の卒コンに乃木坂46のライブとしては初参戦した。

 2013年に一緒に働いていた同僚が過労のため39歳で亡くなる。仕事に対する考え方も大きく変わった出来事だったと思う。この年はたくさんのことがあった。

44歳 (2017)

 11年勤めた会社を退職して、西新宿のSIerに転職。管理職ではあったものの同じ肩書きの古株社員との相性が悪く、日々苦しんでストレスからか急性膵炎を発症して入院。ほとんど仕事らしい仕事をすることなく、会社からも試用期間を延長された上に産業医からの無理難題に対応できないために復職を許可されず、そのまま退職。

 個人再生は1年ほどかかった手続きが終わって裁判所からの認可決定が下り、圧縮した借金の返済を始める。この西新宿の会社からの社会保険料の建て替え分も相当あり、傷病給付金ではとても返せない額の借金を背負ってしまう。

45歳 (2018)

 恵比寿の会社に転職。7社目。初の外資でしかも英語でテクニカルサポート。特に英語は苦手で不安だったものの、リモートワークによって体調の問題の影響を少なくできたことで、ようやく普通に働くことができた。ここからやっと経済的にも上向きに。西新宿の会社からの借金は何回かに分けてすぐに返済できた。

46歳 (2019)

 ほぼ完全に在宅勤務の日々になり、コーヒーメーカーで毎日コーヒーを淹れるようになる。コーヒーもぜんぜん飲めなかったのに、前の年にある人からコーヒーセットをもらってから好きになった。46歳ということで「46」にこだわった一年でもあった。

 ようやく少しずつ貯金ができるようになる。

47歳 (2020)

 個人再生で圧縮してもらった借金をすべて返済した。ここから7年何事もなく過ごせば信用情報がきれいになる。親から借りていた分も2年掛けてやっと返すことができた。

 仕事ではグローバルに表彰されたり、イベントで登壇したり。久しぶりに雑誌に記事も書いたりなども。あれこれ充実してたように思う。

48歳 (2021)

 シニアテクニカルサポートエンジニアに昇進。引き続きイベントへの登壇や雑誌記事の執筆もあり、楽しく仕事をしていたような。借金がなくなったこともあり、一年で500万円貯金する。

 実家の猫が17歳で亡くなって、残りは一頭だけに。

49歳 (2022)

 2013年から通っていた精神科への通院を卒業。仕事は忙しくはしているものの、仕事量に比べて評価が頭打ちになってきてしまったために前向きな転職を決意する。乃木坂46「ここにはないもの」で卒業する齋藤飛鳥さんに重ね合わせて、もうこの会社ではやり切ったかなと思った。

 乃木坂46のライブに5年ぶりに参戦する。日産スタジアムと明治神宮野球場。配信も見やすいけれどもやはり現場は良い。乃木坂的フラクタルでのイベントではいまの推しになった弓木奈於さんに会いに行くこともできた。

50歳 (2023)

 4年9ヶ月働いた恵比寿の会社を辞めて、品川シーサイドの会社に転職。サポートの仕事という点では変わらないものの、扱うサービスやお客様の対象が大きく変わって、また一から出直し。転職後はしばらく4ヶ月の大量の研修で悩まされるものの、「人は夢を二度見る」に励まされたり周りの人の助けもあって何とか乗り切った。

 乃木坂的フラクタルのリアルイベントでは奥田いろはさんと佐藤楓さんのに参加。ライブも配信だけでなく神宮にも参戦して、乃木活も有意義な一年だった。